ポップスと言葉の関係性に関する脳科学的考察―その2

前回に引き続きシリーズもの。バックナンバーはカテゴリーのシリーズにまとめることにしましょうか。

意味が分かり過ぎて辛い
葉がメロディを攻撃する。この表現はRADIOHEADトム・ヨーク氏がいつかのインタビューで発した一言である。ヨーク氏の真意を完全に理解できたかどうかは別として、当時学生であった私はこの一言にひどく共感した。過大解釈さえした。メロディに歌詞が付くことで、そのメロディの意味は限定されてしまう。それがどんなに優れたメロディであっても音楽は言葉に縛られる。伝えたいことをメロディにのせてるんだからそれでいいだろう!?言ってくれるね。それなら奴らは音楽家でなく、はなし家だ。落語を卑下しているわけではないが、言葉ありきの音楽というのはとても底の浅い。カップヌードルのCMがこのことを明確に示してくれている。そして、先ほど登場した学生にとってコブクロが嘘っぽく、EXILEがバカっぽく聞こえる原因はこうしたところにあるのではないだろうか。歌詞の意味が分かりすぎて辛いのだ。音楽とはもっと、その価値を聴き手の想像力に委ねられるべきものだったはずじゃないの?だから彼は異国の言葉で語られる音楽を好む。コミック<ノベル<ミュージックなのだ。そこで語られていることを逐一理解することは出来ないが、音楽そのものを純粋に楽しむことができるからだ。創り手の意図とは無関係にメロディが持つ無限の小宇宙を探索できるからだ。そんな小宇宙に迷いこんだ笑い話を例に挙げよう。ある新婚カップルが自分たちの結婚披露宴の入場BGMにCOLDPLAYの“In My Place”という曲を選んだ。二人にとって思い出深い曲だったからだ。なるほどこの曲はズシリと打ち鳴らされるドラムとギターの高音アルペジオが壮大な印象を与える楽曲だ。メロディも祝福的なムードに満ちている。しかし、この曲の歌詞で語られているのは挫折して打ちひしがれた男のドン詰まりな独白なのである。主席した招待客が一様に拍手をおくるなか、イギリス出身のジャクソン氏だけが苦笑したという。音楽とはこうした勘違いさえも許容する幅を持っているのだ。そう「邦楽は酷くて聴けたもんじゃない。なにがあろうと洋楽の方が絶対的に優れている」という主張は、この文脈でのみ多くの賛同を得られるのではないだろうか。