物書き

 物書きとは暇のある人間の道楽なり。暇のある人間とは即ち時間のある人間なり。神は私に他人よりも多くの時間を与えたもうたか。寿命の計算をしているわけではない。そうではないのだ。真夜中、この時間から仕事に就く者、この硝子窓から見える往来を行く者、そして彼らには決して見つかるまいとしてひっそりと日陰で暮らす野良猫に至るまで、全ての者に時間は平等に与えられる。少なくとも1日が24時間で構成される定理の中では平等である。然しそれでは前置きのスローガンが宙吊りになったままだ。物書きとは暇のある人間の道楽なり。暇のある人間とは即ち時間のある人間なり。
 今朝、目に留まった記事のこと。内容は残業という、いまや背広のネクタイよりも頻繁に見かけるある種のサービスについての討論。というよりもそのサービスにまったく手をつけずに所属部門で抜群の成果を叩き出す、時間術なる魔術を習得した女性労働者の独白である。見出し看板だけは興味深いがその実たいした内容は語られておらず、喩えば、“できるだけ早く歩く”などという滑稽な術まで飛び出したので、苦笑の止むより先に読み捨ててしまった。
 彼女の自信がこびりついた独白、あるいは格好だけは良く出来た見出し看板は今後どれだけの人の時間を浪費するのだろうか、などと意地悪な批評は一旦置くとして、件の記事が余にとって有意義であった点がひとつある。かつて学問という崇高な響きに酔い、専門文書や文献を弄り倒していた自分を思い出させてくれたからである。今となっては世間を、経済を、政治を、道徳を味わったことのない青二才の戯言と自嘲してしまう類の学問であったが、ちょうど雛鳥が初めて見たものを親だと思い込むように、余の中ではひとつの倫理として活きていることも確かである。詰まるところは時間なのだが、経済が発達すればするほど我々の時間は貴重になっていく。時間給850円の小遣い稼ぎならば急遽それをほっぽりだして遊びに出掛けることも間々あるとしても、それが10倍、100倍と膨張していくにつれ、人は奴隷の如く労働を欲し、1日の大半をそれに費やすだろう。喩えが大袈裟すぎるきらいはあるものの、労働の対価としてのカネを食んでいる以上、この螺旋法則は殆どの人の上に正常に機能する。因って現代の人は物書きをせず、読書をせず、映画も観なければ美術館の場所さえ知らず、音楽を聴かなくなってしまったのだ。こうした道楽にはカネが要る。譲歩してカネを使ったところで、その行為が果たしてどれほど我が身の利となったか量れないのでやはりそんなことはしない―勿論そこにはかつて享受能力と云った個人の能力が関わってくるがそれは後日。
 上に書いたことは学問や理論と呼べるほど大それたものではない。結局、袋小路に迷い込み行き場なく発せられるだけで、揚げ足取りの皮肉だ。事実、良いモノを観て、聴いて、感じて、食べて、をしたいがために日々の労働を甘受している人の方が大半であろう。只、余はそういう人に問いたい。あなたにはそれだけの時間がありなさるのか。そして返答を待つよりも、書いてみようと決心す。こうした日々の徒然を。かつて大成できなかった揚げ足取りの皮肉の続きを。物書きとは暇のある人間の道楽なり。